社会で働くこと VS 学校で勉強すること

働くって何だ? 働くことと勉強すること

小学生の国語の授業の時間に、森清さんの「働くって何だ」の一節に出会った。

文字通り、働くことについて、仕事の性質や働き方の変化などについての説明が続いていたので、そういう内容の文章かと思って読み進めていた。

すると、その先には、どのような仕事でも共通する点についての説明と、さらに、それが「君たちの勉強」と同じだという流れになってきた。

慌てて著者と著書について調べてみると、なるほど「岩波ジュニア新書」。

私は不勉強で、著書の森清さんを存じ上げなかった。

何とも平易な文体で、本質をついた著述で、小学生には少々馴染みのない話かと思ったが、それでも彼らなりにイメージを持つことができているようだった。

本書で書かれている一節。

君たちの勉強にしても、ほとんど同じではないか。先生などの相手がいて勉強が始まり、勉強には手順があってうまくその手順を覚えて従うと効率のいい勉強ができる。勉強の途中で自分で、あるいは先生に、その途中経過をチェックしてもらう。すると、それからの勉強がうまくできていい成績がとれる。

森清「働くって何だ」岩波ジュニア新書

自習力養成講座」でお伝えしていることと共通する部分がたくさんある。

これから今までとは別次元のめまぐるしい変化が起こる時代に突入する。

勉強もこれまでと同じではいられない。

これまでの勉強は、良い悪いは別にして、やはり学校を中心に、しかも入試を中心に作られた制度の中で行われてきたという側面がある。

明治の世をむかえ、近代化を図る日本は、近代学校の思想と制度を輸入した。

そこでは明確に「適確者」を選抜する「入試」が不可欠だったからだ。

時代を経て、問われる内容や制度のマイナーチェンジは随時行われてきたのだが、結局、知識の暗記量と限られた時間内での情報処理という力がものをいうテストがくり返されてきたのだ。

いまや「記憶量」「情報処理能力」において、人間はもはやコンピューターには勝てない。

今後は人工知能(AI)などにより、その手の分野の仕事さえなくなるという予測までされている。

ならば、人間が磨くべき能力とは何なのか。

勉強して積み重ねるべき力とは何なのか。

きちんと考えおかなければいけないのは、火を見るよりも明らかだ。

勉強することの意味

でも、変わらずにテストがあり、入試があると多くの人はそのことになかなか目を向けられない。

「仕方ない」

・・・では、済ませられない。

だからこそ「自習力養成講座」を立ち上げ、「自分で学ぶ力」を意識して学習を進めることを推奨してきた。

でも、これは、本当は今の時代だから大事だというのではなく、学ぶことの本質がそこにあると考えなければならないと思うのだ。

今後また新たな技術革新などで時代が変わり、求められる力が変われることだって十分にある。もちろん求められる力が変われば勉強の方法が変わるのは当然といえば当然だ。

しかし、いずれにしても、学ぶというのは「これまでの自分を超える」「自分の成長」「自分の再構築」だと考えれば、内容や方法が変わってもやるべきことはそう大差はない。

だから「正しい方法」を実践し、「自己チェック」をくり返し、「何のために」「何をゴールとするか」を意識し、行動を「継続」していくことが、時代を超え、分野を超え、学ぶことの本質なのだ。

変化の激しい社会で、さらにこれまでと求められる力が変わったとはいえ、学ぶことの本質は変わらないのだから、だから、安心して目の前のテストや入試にも向かってほしい。

ただし、テストで点を取ることだけを目指し、入試の合格がゴールとなるような勉強だけはまちがいなく意味がないものになる。それだけはおすすめできない。

きちんと自分のレベルアップを経由して、その結果がとしてテストや入試でも評価されるような勉強を進めるべきだ。その積み重ねこそが、子どもの未来を切り開き「なにもの」かになるための基盤となる。

「やりたいことないから」

「なりたいものないし」

などと、夢を語らない・語れない子どもが増えたと言われてきた。

しかし、子どもは自分が「なにもの」かわかっていなくて当然といえば当然だ。

そんな自分が「やりたいことは何か」と問われても困る、というのも当然といえば当然。

でも、それは行動しない、チャレンジしない理由にはならない。

だから「学ぶ」のだ。

わからない・知らないから、わかる・知ることが必要なのだ。

だから「いろんなことをやる」のだ。

できないのだから、やるのだ。

自分の適性を見極めたり、可能性を限定したりするために。

可能性は「広げるもの」「大きくするもの」というイメージを持つ人も多いだろう。

子どもの教育となるとさらにその傾向は強くなるような気がする。

でも、変に可能性を広げすぎることで、情報を増やし過ぎることで、行動が鈍ることがある。

特に、情報化社会と言われる現在は、情報が多すぎることによって決断できなくなることが増えてきたような気もする。

だから、何か成果を得たいことがある場合、情報を制限し、一点集中した方が良いこともある。というかそういうものの方が多い気がする。

何より、成果を得るための、成功するための絶対法則は「行動する」「やり続ける」こと。

逆に、成功の反対は「失敗」ではなく、「何もしない」こと。

だから、成功したいのに、情報を集めすぎて行動が起こせないのであれば、むしろ情報を制限して、「えい!」って動き始めてしまった方が良いのだ。

こうしたことも教育の世界になると、あまり語られることがない。

「無限の可能性」

「性善説」

「危険や悪の極端な排除(潔癖・小奇麗な温室作り)」

子どもを神聖視し過ぎたり、寄り添い過ぎると、実際には子どものためにならないことも多い。

「勉強ができればいい」

「テストで点を取ることが勉強」

「良い成績を取れば幸せな人生が送れる」

そのせいで、生物として基本的な生きる力が弱い人も増えたように思う。

魚が切り身でしか見たことがないとか、りんごの皮すらむくことができないとか。

料理ができる・できないの問題ではなく、食べるという生命活動の根幹部分に対しての意識の問題だ。

自分がどう生きるかという意識が欠けているのに、テストで点を取ってどうしようというのか、とさえ思えてしまう人があまりにも多い。

学ぶ=働く=生きる

森さんの話をふまえてまとめれば、

勉強すること=働くこと

さらに、

働くこと=生きること

だとすれば、

勉強すること=働くこと=生きること

なのだ。

生きるため、自分の人生を切り開くためにこそ勉強しよう。

勉強はテストで点を取ることのためにすることではない。

もちろん、自分の人生を切り開くために進学が必要で、そのためにテストで点を取る必要があるのならば、テストで点を取ればいい。

何もテストで点を取ることを否定しているのではない。

テストをゴールにして満足してはいけないという当たり前のことを言いたいだけだ。

最後に再び森さんのことばを紹介して締めくくろうと思う。

会社で君たちが必要とする力は、どれだけものを知っているかだけでなく、どのようにして問題を発見し、その発見から得た課題をどう解きほぐす手段を持ち、努力を重ねて新しいものを作ったり、驚くような感動を与えたりできるかなのだ。

(中略)

発見、分析、評価、成果の確認、さらにそれを検証できる力をどれほど持っているかが鍵となる。(中略)学校での検証作業は難しい。まだ価値を生み出す途中だからだ。シミュレーションしている段階ともいえる。それだけにできるだけ多くの機会にさまざまなことにトライしてほしい。

森清「働くって何だ」岩波ジュニア新書




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