競争意識のなれの果て-「1位になれない小5の息子」

すでに一部ネット上でも話題になっているようだが、
2017年6月7日(水)の読売新聞(朝刊15面)に掲載された「人生案内」に注目します!

塾などの教育産業に身を置いているものとしても、とても他人事とは思えない。

「競争」とか「偏差値教育」「受験教育」ということとも密接に関係している話題だと思うからだ。

これまで多くの小中高生とともに学び、保護者の方と接してきた経験からも、実は、こうした過剰な愛情とでもいうべきか、愛情の方向性がずれている場面はよくある光景ではある。

でも、それによって子どもたちが苦しんだり、正しく努力を積み重ねられないのであれば、たとえ親でも、親だからこそ、考えを改めなければならないこともある。

この記事は、そんなことをふり返る良いきっかけになると思う。

1位を取ることがそれほど重要なのか!?

1位になって欲しいという親の気持ち、共感できますか?

まずは問題の記事をご覧頂こう。

この記事を読み、率直にどう思うだろうか。

同じように子を持つ親であるあなたは、共感する部分もきっとあることでしょう。

現に、僕がこれまで出会ってきた小中高生の保護者でも、きっとこうした考え方を持っているのだろうな、と思う人がたくさんいました。

肝心の、その子の「今」を直視できず、理想や「誰か」や「何か」を基準とした物差しを押し付ける人。

気持ちは分からなくはない。

特に、勉強の話題ともなれば、テストの点数、成績など、はっきりと数値が出る分、「順位」というものが余計に意識されやすい。

有名進学校に入学するとか、大学に進学するとか、志望校に合格するというのは、そうした誰かとの競争・順位付けを経由してはじめて得られることだから、それが目的の人にとっては至極当然の考えだろう。競争や順位を意識するということ、それ自体が決して悪いものではない。

「あの子よりも勝っている」

「あいつに勝ちたい」

そうした「競争意識」は時に成長の重要なポイントになる。

ただし、ただしだ。

それはあくまでもライバルがいることで自分を奮起し、さらなる成長の起爆剤として自分が意識して使える場合には、誰かとの比較、誰かとの競争は意味のあるものになるということだ。

そうでなければ、例えば、

「あいつと比べてお前は○○がダメ」

「あいつは出来るのにあなたは出来ない」

というだけでは、自分のネガティブな部分、不足しているものを過度に強調することになる。

それが成長のための出発点にならなければ、単にネガティブな思考を植え付けられるだけだ。

そんな子どもが何か新しいことにチャレンジしたり、困難なことに挑戦するということができるようになるはずがない。

受験競争はもはや幻想!?

最近は、昭和期の受験競争の弊害などが問題視されてきたから、「つめこみ」とか「受験学力」は否定的に見られることも多い。過度な受験競争は批判の対象となりやすい。

しかし、一方で、やっぱりそういう価値観は戦後(もっといえば明治の学制以降)ずっと継承されてきたものだから、根強く残っている。無意識に多くの人が、学校の(受験の)勉強は良いもの、しなければならないものと考えてしまいがちだ。

だから、子どもたちは、大人たちの無意識の価値観に巻き込まれ、点数をつけられ、順位をつけられ、競争することが当たり前の状態にいるともいえる。特に、勉強の話題では。

ただし、現在は少子高齢化の世の中。

子どもの数が減少し、学校も生徒募集に必至で、塾や予備校界もM&Aや事業縮小(校舎数減)などが当たり前の世の中だ。

上位学校への入試の場面でさえ、かつてのような競争はないのが現状だ。

我が神奈川県を例にとれば、公立高校の倍率は平均1.2倍程度。

人気の学校でさえも、せいぜい2倍だ。

受験という、競争が前提というような場面であっても、それほど熾烈な競争があるわけではないのが現状なのだ。

それにもかかわらず、少しでも上に、とか、1点でも多く点数が上がること、1つでも順位を上げることにこだわるという考えは、何を目的としているのだろうか。

仮にそれが、すでに指摘した通り、自分の意志による、能動的・主体的な成長のための行動の起爆剤として用いられているのなら、何の異論もない。

ただし、やはりテストの点を上げること、誰かよりも良い成績を取ること、ただそれだけが目的になっているのであれば、これほど虚しいことはない。

なぜか。

かんたんな話だ。

仮に、目的が達成された場合、あるテストで満点が取れた、誰かより良い成績を取ったとき、その人は学ぶ意味をなくすのです。

この考えで勉強を進める限り、せっかく学んだことが、何にもつながらない状況になってしまうということがお分かりいただけるだろうか。

もちろん、それまでの過程で学ぶ意義を見出したのであれば、また別の学びにつながるでしょう。ただし、実際に、テストが終わったら勉強しない人、入試が終わったら勉強しなくなる人、大人になったら勉強しなくなる人なんてのはたくさんいる。つまり、多くの人は、テストがあるから勉強するし、誰かに言われなければ勉強しないのだ。実に、もったないし、虚しいがそれが多くの人の現実だ。

だから、勉強が主体的にできない子どもに、テストや受験をちらつかせて勉強をさせたり、競争や緊張感などを過度に与えて勉強させる人もいるが、そんなものは一時的なモチベーションにはなったとしても、長い目でみれば無意味なものになりかねないということも意識しておかなければいけないのだ。

「みんな平等意識」=「不健全な競争意識」

一方で「みんなと同じ」的な考えをする人も多い。

最近はだいぶ減ってきたようだが、一時期は順位付けがよろしくないってことで、運動会の徒競走は横一列になって全員一緒にゴールしたり、お遊戯会では主役が何人もいる劇を演じるなどというバカバカしいことが大真面目に実施されていた。

これは競争とか序列付けを嫌い、「みんな平等」にという考えのなれの果てだろう。

もちろん、公的な学校教育とかであれば、教育の機会均等とか、どんな子でも平等に学ぶことができるようにするというのは大事なことだ。

しかし、学びの結果は誰もが平等であるはずがない。

テストをすれば、どんなに同じ授業、同じ教材、同じ時間で勉強しても、点数や順位がはっきりと出てくるものだ。

学びの過程や結果まで「みんな平等」なんてのは、ものすごく不自然なこと。

でも、多くの人は、こうした「平等」とか「みんなと同じ」という意識と、1点でも多い点数、1つでも上の順位を得ようとする競争意識をごちゃまぜに抱えている。

ある意味でそれはとても自然というか、ごく当たり前なことではあるが、僕からすれば、そのどちらも同じ理由で、不健全さを感じるのだ。

それは、両者ともに、基準が自分ではない「外」にあるからだ。

過度に平等意識を持つ人は、周りの「みんな」という基準。

過度に競争意識を持っている人も、周りの「誰か」の点数や順位という基準。

どちらも「自分」というものがないがしろにされ過ぎてはいないだろうか。

「我唯足るを知る」で得られるもの

さて、少し遠回りをしたが、読売新聞の「人生案内」の「回答」の方をご覧頂こう。

大日向雅美さんという大学教授のコメントである。

ちなみに、大日向さんは心理学者(発達心理学)であり、たびたびこの「人生案内」に登場するが、なかなか刺激的なというか、本質的な回答を提示している。

今回も、もっともなご意見が展開されている。

質問者のお母様と同様な思いを抱いている方にとっては、傾聴すべき意見だと思われますので、ぜひじっくりご覧頂きたい。

これまで、質問者の母親と同様な保護者を見てきた僕としては、しごく納得のいく、共感できる回答だ。

塾に子どもを通わせる親というのは、もちろん、優秀な方やきちんと努力されてきた方もたくさんいらっしゃるが、けっこうな割合で、「自分は学生時代勉強には自信がなかった」とか「勉強に関してはうまくアドバイスしてあげられない」という方がいらっしゃる。

もちろん、餅は餅屋ということで、その道のプロにまかせるという選択はある意味で正しいのでしょう。

ただし、自分は学生時代に十分に努力しなかったこと、達成できなかったこと、それを棚上げして、やれ「勉強しろ」「宿題やれ」「あれやれこれやれ」と言うのはどうなんでしょう。

もちろん、それらは、自分が出来なかったことを子どもに託すとか、子どもには苦労させたくないから、という親の愛情というところから来た言動なのかもしれない。

でも、それを単に押し付けるだけでは、やはり子どもは納得できない。

はいそうですか、と訳も分からない努力ができるはずがない。

子どもは親や大人のそういった「ごまかし」はすぐに見破ります。

自分は努力の1つもしない、口先だけの大人の言うことに納得し、共感し、説得させられて、動くなんてことしないでしょう。

仮に、力で押さえつけて、無理矢理何かをやらせたところで、そんなものいずれやめてしまうか、やめなかったとしても、きっとたいして使えるものにはならないのでしょう。

子どもに「アカルイミライ」を与えたいというのであれば、そのために勉強なりスポーツなりをさせたい、学ばせたいと思うのであれば、きちんと思いを伝え、自分自身が率先して努力できる、学ぶ姿勢を持った人間でなければならないでしょう。あるいは、うまくそそのかして、その気にならせるという逆説的なやり方も良いのかもしれない。

いずれにしろ、多くの大人は、自分のことを度外視して、子どもに過度にプレッシャーを与え過ぎていないか、よくよく考える必要があるのではないだろうか。

大日向さんの言葉を借りれば、まさに、

「ご自分はこれまでどれほどのことをなし得ていらしたのでしょうか」

ということだ。

きっと自分が人からも立派だと言われるような努力をやり遂げてきた人は、こういう「引き算」的な思考はしないのではないでしょうか。だって、そういう行動をしていても、良いことなんてないと知っているはずだから。

もちろん理想や目標と現状のギャップを意識して努力することは必要です。

でも、それは「過去や今の自分」と「未来の自分」とのギャップこそ意識すべきもの。

誰かと比べた優劣では決してないはずだ。

「過去の自分との競争に打ち勝ち、より良い未来に向かって今の自分を高める努力をする」

それこそが健全な成長に他ならない。

そうした健全な成長を続けていくためには、やはりその時々の自分を、それまでの自分の言動を肯定的に捉える視点が不可欠なものだと思う。

周囲の人、信頼する先生とか先輩、友人などに、そのままの自分を認められるという経験は何よりも重要なものとなる。それがなければ何かに挑戦することなんて怖くてできないのが人間というものだろう。

特に、幼少期に親からの承認をきちんともらうことは、その後、勉強だけでなく、何か(課題・困難)に向かって努力を続けるための原動力となるのだ。

そんな当たり前といえば当たり前の視点を度外視にして、勉強だろうが、スポーツだろうが、何でも構わないが、1番になれないことに悩んだり、1番になることを強要したりすることに、いったいどれほどの価値があるのだろうか。


・・・とまぁ、保護者に厳しい視点でつづってみましたが、保護者だって人間。

10歳の子どもの親であれば、子どもと同じく親年齢10歳なわけです。

子どものためと思ってやったことが、結果子どものためになっていなかったなんてことの一つや二つ経験して、一人前の親になっていくのでしょう。

でも、だからこそ、大人自身が、親自身が、子ども以上に学び手であり、努力する人であってほしいと僕は思うのです。

仕事であれ、趣味であれ、何であれ、きちんと努力する姿勢をみせていること、子どもの様子に、考えに耳を傾けていることが伝わればそうそうおかしなことにはならないでしょう。

何となく上手くいっていない生徒は、多くの場合、親子関係が、特に親の考えや言動が少々おかしい場合が多いのも事実です。

子どもたちの近くにいるオトナの1人として、僕自身も自戒の念を込めて、この記事を投稿します。

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